• 【わたしも履歴書14】SUPER STARS in TOKYO 【 後編 】

【わたしも履歴書14】SUPER STARS in TOKYO 【 後編 】

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80年代後半は僕にとってのナイトクラビング時代だったことは以前の履歴書でも触れました。
ある意味『狂乱の時代』でもあったわけです。
バイト友達が世界的に有名なDJになったり、朝日が登っても遊び続けたり、挙げ句の果てにはスタッフの賄いメシまでごちそうになったり(恥)。
でも、無自覚にアホみたいに遊び呆けていただけではありませんでした。
なんて言うか、もうちょっとアカデミックというか、学術的にナイトライフを探求・研究するジャンルが生まれていました。
僕と同い年でマガジンハウスのフリーの編集者をやっていたA田くん。彼もまた大学生でありながら編集をやっていた、まさに僕と同じ境遇でした。
タイプは違いますが何だか馬が合ってたまにマガジンハウスで会うとそのまま夜の街に繰り出す、なんてこともありました。
彼が在籍していたのは日芸、日本大学芸術学部です。
今の様子は知りませんが当時は変わりモノが多かった。
A田くんはその代表格みたいな人物だったけど。
ただ学校なのでその人格形成にはやはり師匠の存在が大きいワケで。
彼もその例外ではなく、学んでいた先生が輪をかけて変わりモノでした。
そのT先生はティモシー・リアリーというアメリカの心理学者と繋がってたんじゃないかな、LSDとかそっち系の。
後期は『コンピュータこそが現代のLSDである』と唱え、技術開発に没頭した学者。
そんな思想に影響を受けて、T先生はクラブで合法的に人格変容するマシンを取り入れよう、という文字だけでは全く説明のつかないシステムを導入しようとしていました。

 

それは『シンクロ エナジャイザー』という名前の機械です。
ヘッドフォンとゴーグルを着けてベッドに横たわり、サイケデリックな映像とダンスミュージックとも言えない奇怪なサウンドをシンクロさせていくうちにトリップしてしまう・・・ん〜これでも説明になっていませんね。
今のVR技術とテクノヒッピーイズムをミックスしたような怪しいシステムでした。
そのマシンがVIPルームに置かれていたのが「J TRIP BAR ENDMAX」という東麻布にあったクラブです。そこの監修をT先生がやっていた関係で度々僕やA田くんはそこに通っていたというわけです。

 

ようやくスーパースターの話になるのですが、NYから物凄いDJが来日してそこのクラブで回すことになり、そのDJのスタイリングをA田くんから頼まれました。
1990年のことです。そのDJはラリー・レヴァン、80年代のNYのナイトシーンを代表するクラブ「パラダイスガレージ」のレジデントDJでした。
今でこそパラダイスガレージといえば、ガラージュを生み出した聖地でラリー・レヴァンがどれほどの神かを理解できるのですが、当時の僕は大きな音で気持ちいいBPMのサウンドが流れていればそれで十分っていう音楽ズレしたヤツだったので、どれほど凄い人にスタイリングするのか自覚がありませんでした。
その時の本人からのリクエストは「アーストンボラージュが着たい。」というもの。
どうやら彼が信奉するマイルス・デイビスのお気に入りブランドだから俺も着てみたい、というのが理由だったようです。
アーストンボラージュというのは佐藤孝信によるブランドで、ミュージシャンやアーティストに人気があり、少年隊もステージ衣装にしてました。
正直、僕のテイストとは全然違っていてリースに行ったのも初めてでした。
おまけにプレスの人もラリーのことを知らなくて借りるのが大変だったのを覚えています。
今、この原稿を書きながらパラダイスガレージでの彼のライブ音源を聴いているんだけど、このサウンドとグルーブ感を現場で味わっていたのかと思うと何だか不思議な感じです。


さて、僕にとっての「狂乱の時代」はもう書き尽くしただろうか。
もう少しだけ思い出してみます。では次回をお楽しみに。