• 【わたしも履歴書3】「A.D. Mr MITOMO」

【わたしも履歴書3】「A.D. Mr MITOMO」

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御供さんとの奇跡の出会いから数ヶ月、あの瞬間のテンションもエネルギーも切れかけた頃、突然その日はやってきました。アルバイトも休みで学校もなく友達との約束もない。夕方なにをするでもなくアパートでぼぉっとしていると突然電話が鳴りました。

 

「ミトモですけど!」御供さん独特の大きな声と言い回しで(御供さんを知る人はみんなモノ真似できるフレーズ)電話の主は続けざまにこう言いました。「明日空いてる?」空いてようが空いていまいが答えは一つしかありません。上擦った声で「・・ハイ!」と返事をし興奮したアタマをフル回転させながら住所を書き留めました。そして次の日。この日は御供さんが所属するクリエイティブオフィス『トゥールズ/TOOLS』の1周年のパーティーでした。僕はその手伝いを頼まれていたというわけです。

 

広尾3丁目にあった変形の建物の3階、細長い階段を上るとそこは憧れの人のオフィス。でもトキめいている暇もありません。来客をもてなす準備に追われ、アッという間にそれこそポパイでしか見たことがないオールスターたちで狭い事務所はいっぱいになりました。それから数時間、自分がどう立ち振る舞っていたのか覚えていませんが、気付くとみなさんのテンションも最高潮を迎えそのまま二次会の流れになり『TOOLS BAR』へ移動していきました。それは西麻布の交差点近くの地下にあったクラブ。僕も名前だけは知っていましたがそんなところ、行ったことあるわけありません。なかなか例えられませんが、今なら海外旅行に初めて行った若造がニューヨークの超アンダーグラウンドなクラブに潜入する・・・のと同じくらいハードルの高い店でした。

 

ここで解説すると、御供さんはポパイではフリーランスの立場。毎号編集に関わりながら別の仕事もしていました。そこで結成されたユニットがトゥールズ。御供さん、近藤さん、スコットさんの3人でファッションのみならずいろんなジャンルで活躍していたのですが、そのメインの仕事が西麻布にあったトゥールズバーの運営でした。流れ的に二次会になるのは当然、というわけです。

 

この辺りの話を書き連ねるとキリがないのですが、振り返ってみると御供さんから電話が掛かってきたあの日、もし僕がバイトで部屋にいなかったら今の自分の存在はなかったなぁって強く感じます。言うまでもなく固定電話の時代でしたから。著名人のインタビューを読んでいるとよく「自分は運があった」と答えていますが、あれはけっして謙遜でもなんでもなく心底からそう思ってるんだと感じます。もうこの世にはいなくなってしまった御供さんに聞いてみたことはないけど「あの時なんで僕に電話したんですか?」って。きっと手伝いたかった若いヤツらは周りにいっぱいいただろうに。

 

上の写真は1988年に出版された『POPEYE O.B. CLUB』というムック本。最前列の右から4番目で頭を掻いたポーズをしているのが御供さん。きっとここに写っているうちの何人かはあの1周年パーティーに参加してたんだろうなぁ。

 

御供さんとの出会いが今の僕の全てを作ってくれたわけなんだけど、それが入り口となってナイトシーンというかクラブカルチャーにも大きく深く関わっていくことになります。自分にとっての夜遊び全盛期を振り返ってみようと思うのですが、それは次回にさせていただきます。